逆説的カウンター思考

宗教的思考、哲学的思考に対するカウンターとしての逆説的解釈を考える時がある。
天邪鬼カウンターとでも揶揄してみて、
逆説的に物事を考え反応するのは、書く人によくある思考のパターンか。
書くことで自己を表現する、独特の孤独感に
積極的に己心の釈尊が、無意識に発動しその鼓動が毒鼓となり鳴る。
鳴る毒鼓は新たなるカウンターとなって、己心にフードバックする。
入る毒鼓を己心の釈尊が大いなる慈悲で包み込む。
日蓮聖人が観心本尊抄で解くところの、釈尊の因行、果徳の二法を、雑味なく柔和素直なる心で受け止めるには、どう生きるのか。
それは、やはり半端な御修行ではなし得ない
、決定して疑いあることなき心眼にして、一心に仏を見立奉らんと欲する境地に、自ら進んで行ずる者にこそ自然に譲与される。
それは月が天空に昇る時、濁水なれど清らかな天月が水面に映るそれである。
本仏の慈悲は、常に自然に発動する。
一切法が法華経であるとするならば、如何なる事象もまた内なる釈尊の自然なる慈悲の発動であり何も疑う必要もない。
自他共に疑う必要などない。
しかし乍、人間は、己心の釈尊の自然なる慈悲を疑い、そのことの意味を感じとれず、ニヒリズムとそこから生じるカウンター的逆説の思考に、素直さを失い自己を自己が承認するかのように振る舞うそれは、「天月を知らずして、ただ、池月を観ずる」との如くである。
お題目のエネルギーに触れずして、逆説的に自己を極限まで肯定したところで、エゴとナルシシズムのニヒリストとなるのみである。
顕在意識に現れるそれは、そのことに自己そのものを受け止め、感情というツールを適度に使いその事に気づかせるのだ。
我があるがままの感情でさえ、釈尊のエネルギーである。
真の自己開示悟入にたどり着く前に、その御修行を止めれば、気づきの一片もまた虚しく
自己の存在と、他の存在を分け隔てる。
一心の妙法の真実から乖離した、大いなる慈悲を受け取る覚悟なき、思考というエゴとそれに生きることとなる。
それもまた、生命のカルマとそこに生きる
その人の御修行の時がある。
だからこそ、その色の因果に時の過ごし方を学べばよい。
時鳥は時をおくり
鶏鳥は暁を待つ
畜生すら尚かく如し


日蓮宗天鼓山昭蓮寺

愛知県江南市にある日蓮宗の寺院 広く社会に求められるお寺へ次元上昇 法華経は、日本人のDNAに刻まれた精神世界の根源 日月の光が闇を照らすように 一人一人が、日月となる 闇は、光の母

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